という情報を、いつも参考にさせていただいている
(けど、トラックバックが通らない) 「
調査会法情報 」さんの10日付エントリ「
調査会法情報090510 (元米兵捕虜・旧軍毒ガス・公文書) 」で見かけた。ここですかさず「まさか」と思ってしまうわたくし、日本政府に対する信頼感に満ちあふれているようだ。
以下、紹介されていた新聞記事。私がとる前に魚拓が撮られていたから、このエントリを書いている間に
Apemanさんが エントリを上げられるかもしれない
(注;と予想してみたけど、16:00時点でまだだった(^^;) 。
第二次世界大戦中にフィリピンを占領した旧日本軍が捕虜を数日間歩かせ、多数が死亡したとされる「バターン死の行進」を巡り、日本政府が駐米大使を通じ、元米兵捕虜の団体に謝罪していたことが9日、分かった。行進の現場「バターン半島」に日本が言及して謝罪したのは初めて。(後略)
…「日本政府が駐米大使を通じ」で、それで「公式謝罪」でいいのだろうか?と素朴な疑問に駆られるのは私だけだろうか。他の報道を探してみたが、日経のこのごく短い記事しか見当たらない。日本人の大部分が、そんなことがあったの?みたいな状態で、「公式謝罪」と称していいのだろうか…。
例えば、私の観測方面における例では、
オーストラリア政府がアボリジニの人達に公式謝罪した時は議会に謝罪決議をあげて首相がスピーチ をし、
カナダの場合も、首相が先住民族代表を議場に招いて公式謝罪スピーチ をした。ちなみに、日本の場合は、
「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が両院で採択 されたけど、
橋本首相(当時)が個人として謝罪したとの情報はあっても、公式な謝罪はしていない 。謝れない国だなぁと思っていたのに
日本政府が「公式謝罪した」 とタイトルのついた報道がでていたので驚いたが、「国民のどれだけが知っているのだろう?」な何かの表明(日経報道では「日本政府が駐米大使を通じ」とあるから、下記を参照するに手紙の可能性も高い)を「公式謝罪」としていいのだろうか。
被害当事者の代表として活動してこられた
「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会」会長;レスター・テニー氏 は 、この謝罪で喜んでくださっているようではあるものの、加害国の国民である一個人(私だけど)は今ひとつ釈然とできないでいる。
US-Japan Dialogue on POWs では、4月9日に以下の記事が公開されていたようだ。
(略) 私たちの不運な歴史は昨年11月、私が、駐米日本大使と大使夫人と個人的に面談したことで、概ね決着しました。私はついに、日本の高官に私の物語を語ることができたのです。彼は、私の屈辱を聞き、私の傷を見つめ、そして私が捕虜のトラウマを乗り越えるのをこれまで助けてくれた日本人の友人たちのことを知りました。 私は大使に、私たち捕虜が正義を得られるよう、彼の政府に3つの依頼をすることを支援して欲しいと、頼みました。それは (1)政府からの正式謝罪(2)戦時中の捕虜労働に謝罪をするよう企業に呼びかけること(3)和解プロジェクトに加えてもらうこと、です。 12月になり、日本大使は、私が何十年も待っていたニュースを届けてくれました。彼の手紙には、日本政府が 「フィリピンのバターン半島とコレヒドール島で悲劇的な体験をした人々も含めて、多くの人々に多大の損害と苦痛を与えたことに、心からのお詫びを申し上げます。」 と書いてありました。 この肯定的意思表示に続き、2月には、“全ての元捕虜”に謝罪するという閣議決定を受けたステートメントが、日本の国会議員に伝えられました。それは、捕虜を特定する、或いは日本帝国によって傷つけられた特別なグループを特定する、初めての公式謝罪でした。 私たち捕虜は、長い間求めてきたこの謝罪を受け入れます。そして今こそ全ての関係者がそれを聞き、受け入れるために、日本がこの謝罪を公けに発表するようお願いします。私の他の二つの依頼にも、間もなくよい返事が貰えると信じています。70年近い年月がかかりましたが、日本が捕虜を不当に取り扱ったと認めたことで、歴史的正義が達成され、日米関係がより満ち足りたものとなるのです。平和な同盟国としての未来こそ、私たちが最初から望んでいたことでした。
多分、ここで言及されている12月の手紙が日経で「9日、分かった」と報じられた「公式謝罪」ではなかろうか。明らかになったのが今のタイミングなのは、前掲の日経報道によると「
メンバーの高齢化で今月末に解散する 」からなのかもしれない。
2月に国会議員に伝えられたという「“全ての元捕虜”に謝罪するという閣議決定を受けたステートメント」「それは、捕虜を特定する、或いは日本帝国によって傷つけられた特別なグループを特定する、初めての公式謝罪」とは、私は少なくとも報道で見かけた記憶はないし(巡回先のブログで話題になっていた記憶もない)、「日本がこの謝罪を公けに発表」もされていないはずだ。
謝罪は被害者に受け入れてもらえるのが第一に必要な要素。ではあるのだが、本当に、こういう「公式謝罪」でいいんだろうか? 本当にいいの?それで?という釈然としない気分がぬぐえない。
以下、事件の被害証言の一部と、関連して印象に残った文章をメモ。
(略) 降服の後、私たちは直ちに炎天下のバターン半島を、食糧も水も、医療も休憩も与えられず、105キロの道のりを行進させられました。今日、「バターン死の行進」は、第二次大戦中の最悪の戦争犯罪の一つとして記憶されています。 私は、水を飲もうとしただけで撃たれたり、早く歩けなくてタンクに轢かれたり、一歩も進めなくなって銃剣で刺されたり、銃を突きつけられて病気の捕虜を生き埋めにすることを強いられた仲間たちのことを、決して忘れないでしょう。私自身も、馬に乗った日本人将校が日本刀を私の肩に振り下ろした時に負った深い傷跡を、今でも抱いています。 「バターン死の行進」に生き延びた者たちには、3年余の想像を絶する残虐な収容生活が待っていました。私も含めて多くの捕虜が“地獄船”に乗せられ、水も衛生施設も無い船倉に肩と肩が触れ合うほど詰め込まれた後、日本帝国全土の工場、鉱山、港湾に送られました。生き残った者は文字通り、戦時生産のために日本の私企業に売られたのです。 私は危険な三井鉱山で石炭を掘りました。全ての捕虜がそうだったように、私はこき使われ、殴られ、辱められ、飢えました。
他方、"捕虜の恥辱"という倒錯的価値観に支配された日本軍は、敵の投降者に対しても同じ価値観を強要した。(略) こうした事態は、(略) バターン半島における「死の行進」の原因ともなった。バターン半島で捕虜となった米国・フィリピン連合軍の将兵の場合、そのほとんどが飢餓やマラリアや赤痢や脚気等で活力を消耗していた。一方、コレヒドール島攻略に手間取り頭に血が上っていた日本軍は、敵の捕虜の状態など顧みる余地もなく、作戦に邪魔になる捕虜達を戦線の後方にしゃにむに構想すること以外思いをめぐらす暇はなかったのである。悲劇はこうして起こった。(略) 「行進の途中、大きな掘り抜き井戸の前で停止を命じられた。(中略) 捕虜は水を眺めるだけで飲むことを許されなかった。列から駆けだして水を飲もうとする者は撃たれたり、銃剣でさされた。死体はその場に置き去りにされた。先に進むにつれ目にする光景はますますひどくなった。(略) 」 護送についていた日本兵は当たり前のように捕虜から身の回り品をはぎとり、竹の杖で殴りつけた。捕虜は何度も何度も"身体検査"を受け、歯ブラシ、万年筆、指輪、石鹸など手当たり次第に奪われた。ある将校は、結婚指輪をもぎとろうとした日本兵に抵抗したため、指輪ごと指を蛮刀で切り落とされた。
森本忠夫著、貧国強兵 第5章 虚構の崩壊 P.238
「私はレイテ沖海戦で乗艦が撃沈され米軍の捕虜となり、レイテ捕虜収容所に一年間収容されていました」と一市民関山栄次は、ある新聞の投稿記事の中で書いている。 「ここには約千二百人の日本人捕虜がいましたが全員が、同胞が命を賭けて戦っているとき安閑と的中に生をむさぼっていることを恥じ、ときには死にたいという衝動にもかられました。しかし日がたつにつれ米軍の態度がわれわれの常識と違うのに気付きました。監視のMPも軍医もみな親切だし衣類、食料、たばこなどに至るまで米兵並みに支給されます。掲示板には、捕虜は本国の家族と文通し必要品を送ってもらうこともできると書かれ、私たちははじめてジュネーブ捕虜条約なるものがあると知りました 。ある日、収容所長のアバキャン中尉が意気消沈している私たちを集めて、「あなたたちは最後まで逃げずに勇敢に戦ったのだから決して卑屈になることはない。あなたたちは英雄なのだ」と言うのでした。長年、玉砕教育を受けてきた私たちにとっては驚きでした。
森本忠夫著、貧国強兵 第4章 強兵の形成 P.213、強調は引用者
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第二次世界大戦中にフィリピンを占領した旧日本軍が捕虜を数日間歩かせ、多数が死亡したとされる「バターン死の行進」を巡り、日本政府が駐米大使を通じ、元米兵捕虜の団体に謝罪していたことが9日、分かった。行進の現場「バターン半島」に日本が言及して謝罪したのは初めて。(後略)
…「日本政府が駐米大使を通じ」で、それで「公式謝罪」でいいのだろうか?と素朴な疑問に駆られるのは私だけだろうか。他の報道を探してみたが、日経のこのごく短い記事しか見当たらない。日本人の大部分が、そんなことがあったの?みたいな状態で、「公式謝罪」と称していいのだろうか…。
例えば、私の観測方面における例では、
オーストラリア政府がアボリジニの人達に公式謝罪した時は議会に謝罪決議をあげて首相がスピーチ をし、
カナダの場合も、首相が先住民族代表を議場に招いて公式謝罪スピーチ をした。ちなみに、日本の場合は、
「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が両院で採択 されたけど、
橋本首相(当時)が個人として謝罪したとの情報はあっても、公式な謝罪はしていない 。謝れない国だなぁと思っていたのに
日本政府が「公式謝罪した」 とタイトルのついた報道がでていたので驚いたが、「国民のどれだけが知っているのだろう?」な何かの表明(日経報道では「日本政府が駐米大使を通じ」とあるから、下記を参照するに手紙の可能性も高い)を「公式謝罪」としていいのだろうか。
被害当事者の代表として活動してこられた
「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会」会長;レスター・テニー氏 は 、この謝罪で喜んでくださっているようではあるものの、加害国の国民である一個人(私だけど)は今ひとつ釈然とできないでいる。
US-Japan Dialogue on POWs では、4月9日に以下の記事が公開されていたようだ。
(略) 私たちの不運な歴史は昨年11月、私が、駐米日本大使と大使夫人と個人的に面談したことで、概ね決着しました。私はついに、日本の高官に私の物語を語ることができたのです。彼は、私の屈辱を聞き、私の傷を見つめ、そして私が捕虜のトラウマを乗り越えるのをこれまで助けてくれた日本人の友人たちのことを知りました。 私は大使に、私たち捕虜が正義を得られるよう、彼の政府に3つの依頼をすることを支援して欲しいと、頼みました。それは (1)政府からの正式謝罪(2)戦時中の捕虜労働に謝罪をするよう企業に呼びかけること(3)和解プロジェクトに加えてもらうこと、です。 12月になり、日本大使は、私が何十年も待っていたニュースを届けてくれました。彼の手紙には、日本政府が 「フィリピンのバターン半島とコレヒドール島で悲劇的な体験をした人々も含めて、多くの人々に多大の損害と苦痛を与えたことに、心からのお詫びを申し上げます。」 と書いてありました。 この肯定的意思表示に続き、2月には、“全ての元捕虜”に謝罪するという閣議決定を受けたステートメントが、日本の国会議員に伝えられました。それは、捕虜を特定する、或いは日本帝国によって傷つけられた特別なグループを特定する、初めての公式謝罪でした。 私たち捕虜は、長い間求めてきたこの謝罪を受け入れます。そして今こそ全ての関係者がそれを聞き、受け入れるために、日本がこの謝罪を公けに発表するようお願いします。私の他の二つの依頼にも、間もなくよい返事が貰えると信じています。70年近い年月がかかりましたが、日本が捕虜を不当に取り扱ったと認めたことで、歴史的正義が達成され、日米関係がより満ち足りたものとなるのです。平和な同盟国としての未来こそ、私たちが最初から望んでいたことでした。
多分、ここで言及されている12月の手紙が日経で「9日、分かった」と報じられた「公式謝罪」ではなかろうか。明らかになったのが今のタイミングなのは、前掲の日経報道によると「
メンバーの高齢化で今月末に解散する 」からなのかもしれない。
2月に国会議員に伝えられたという「“全ての元捕虜”に謝罪するという閣議決定を受けたステートメント」「それは、捕虜を特定する、或いは日本帝国によって傷つけられた特別なグループを特定する、初めての公式謝罪」とは、私は少なくとも報道で見かけた記憶はないし(巡回先のブログで話題になっていた記憶もない)、「日本がこの謝罪を公けに発表」もされていないはずだ。
謝罪は被害者に受け入れてもらえるのが第一に必要な要素。ではあるのだが、本当に、こういう「公式謝罪」でいいんだろうか? 本当にいいの?それで?という釈然としない気分がぬぐえない。
以下、事件の被害証言の一部と、関連して印象に残った文章をメモ。
(略) 降服の後、私たちは直ちに炎天下のバターン半島を、食糧も水も、医療も休憩も与えられず、105キロの道のりを行進させられました。今日、「バターン死の行進」は、第二次大戦中の最悪の戦争犯罪の一つとして記憶されています。 私は、水を飲もうとしただけで撃たれたり、早く歩けなくてタンクに轢かれたり、一歩も進めなくなって銃剣で刺されたり、銃を突きつけられて病気の捕虜を生き埋めにすることを強いられた仲間たちのことを、決して忘れないでしょう。私自身も、馬に乗った日本人将校が日本刀を私の肩に振り下ろした時に負った深い傷跡を、今でも抱いています。 「バターン死の行進」に生き延びた者たちには、3年余の想像を絶する残虐な収容生活が待っていました。私も含めて多くの捕虜が“地獄船”に乗せられ、水も衛生施設も無い船倉に肩と肩が触れ合うほど詰め込まれた後、日本帝国全土の工場、鉱山、港湾に送られました。生き残った者は文字通り、戦時生産のために日本の私企業に売られたのです。 私は危険な三井鉱山で石炭を掘りました。全ての捕虜がそうだったように、私はこき使われ、殴られ、辱められ、飢えました。
他方、"捕虜の恥辱"という倒錯的価値観に支配された日本軍は、敵の投降者に対しても同じ価値観を強要した。(略) こうした事態は、(略) バターン半島における「死の行進」の原因ともなった。バターン半島で捕虜となった米国・フィリピン連合軍の将兵の場合、そのほとんどが飢餓やマラリアや赤痢や脚気等で活力を消耗していた。一方、コレヒドール島攻略に手間取り頭に血が上っていた日本軍は、敵の捕虜の状態など顧みる余地もなく、作戦に邪魔になる捕虜達を戦線の後方にしゃにむに構想すること以外思いをめぐらす暇はなかったのである。悲劇はこうして起こった。(略) 「行進の途中、大きな掘り抜き井戸の前で停止を命じられた。(中略) 捕虜は水を眺めるだけで飲むことを許されなかった。列から駆けだして水を飲もうとする者は撃たれたり、銃剣でさされた。死体はその場に置き去りにされた。先に進むにつれ目にする光景はますますひどくなった。(略) 」 護送についていた日本兵は当たり前のように捕虜から身の回り品をはぎとり、竹の杖で殴りつけた。捕虜は何度も何度も"身体検査"を受け、歯ブラシ、万年筆、指輪、石鹸など手当たり次第に奪われた。ある将校は、結婚指輪をもぎとろうとした日本兵に抵抗したため、指輪ごと指を蛮刀で切り落とされた。
森本忠夫著、貧国強兵 第5章 虚構の崩壊 P.238
「私はレイテ沖海戦で乗艦が撃沈され米軍の捕虜となり、レイテ捕虜収容所に一年間収容されていました」と一市民関山栄次は、ある新聞の投稿記事の中で書いている。 「ここには約千二百人の日本人捕虜がいましたが全員が、同胞が命を賭けて戦っているとき安閑と的中に生をむさぼっていることを恥じ、ときには死にたいという衝動にもかられました。しかし日がたつにつれ米軍の態度がわれわれの常識と違うのに気付きました。監視のMPも軍医もみな親切だし衣類、食料、たばこなどに至るまで米兵並みに支給されます。掲示板には、捕虜は本国の家族と文通し必要品を送ってもらうこともできると書かれ、私たちははじめてジュネーブ捕虜条約なるものがあると知りました 。ある日、収容所長のアバキャン中尉が意気消沈している私たちを集めて、「あなたたちは最後まで逃げずに勇敢に戦ったのだから決して卑屈になることはない。あなたたちは英雄なのだ」と言うのでした。長年、玉砕教育を受けてきた私たちにとっては驚きでした。
森本忠夫著、貧国強兵 第4章 強兵の形成 P.213、強調は引用者
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No. 5892
ご期待に反し、私も初耳のニュースでした(^^;
ちょっと調べてからご報告したいと思います。
No. 5894
勝手に期待しちゃってすみません(^^;
…公式謝罪には定義はないのかもしれませんが、日本政府が第二次世界大戦時したことに対し「公式謝罪」との報道に力一杯驚いてしまいました。
No. 5916
慰安婦問題の参考になり、いつも感謝しています。日本の人権問題と思っています。EUなどの勧告に従って解決したいと願っています。
アジア女性基金が、見舞金を受け取った被害者にのみ渡した総理大臣の手紙と似ていますね。国民に共有されていない、ほとんどの人が知らない謝罪。
No. 5919
>IHさん
ようこそ。コメントありがとうございます。
>国民に共有されていない、ほとんどの人が知らない謝罪。
<
知られていない事だけが問題じゃないですよね。。。
公式謝罪要求決議や意見書の多くは歴史教育も要求しているわけですが、こちらのエントリの「慰安婦問題をめぐる論争において」以下に、考え込んでしまいました。
http://d.hatena.ne.jp/macska/20090508/p2 No. 5934
>>加害国の国民である一個人(私だけど)は今ひとつ釈然とできないでいる。
なるほど、アメリカは被害国ですか。
広島・長崎の原爆投下を被爆者に一度でもいいから、謝罪して欲しいものですが。
日本は加害国だから無理なんでしょうね。
No. 5935
sigmentさんという人は、「加害国」と「被害国」という枠組みがあることは動かしがたいことで、日本は「加害国」、アメリカは「被害国」というような判断が成立し得る(その判断の当否は別として、そういう枠組みで考えるのは動かしがたい)と考えているのでしょうねえ。わたしなんて、日本は一方的に「加害国」だと「被害国」だとか決めること自体が紋切り型な思考だと思うんだけど…。
なんか「なるほど…」とかいって、独りで納得しているよ。
No. 5936
>>kuronekoxy
そうですね。では訂正しましょう。
「加害国」アメリカには、ぜひ広島・長崎の原爆投下を被爆者に謝罪して欲しいものですね。
No. 5937
どうもです。
No. 5938
m0t10nさま
>そうですね。では訂正しましょう
同意いただけて幸いです。
これまで、アメリカは「犠牲者を出さないために原爆投下は必要だった」と言い張ってきましたからね。早くそうした強弁をせずに、被害者に謝罪して欲しいものです。
日本人だって、シンガポールやインドネシアでの旧軍の非人道的行為を謝罪するのですから、アメリカ人だって謝るべきところは謝るべきだし、国家としても原爆投下の責任には向き合うべきでしょう。
No. 5940
>No. 5934 [ 2009/05/21 22:18 ] sigment
>No. 5936 [ 2009/05/22 00:19 ] m0t10n
>No. 5937 [ 2009/05/22 00:33 ] sigment
日本語で相手と意思疎通するための文章を書くのが不得手なのかもしれませんが、一人二役だか二人一役なんだか訳の解らないコメントはご遠慮下さい。訳が解らないので、まとめてレスします。
>広島・長崎の原爆投下を被爆者に一度でもいいから、謝罪して欲しいものですが。
>「加害国」アメリカには、ぜひ広島・長崎の原爆投下を被爆者に謝罪して欲しいものですね。
<
「被爆者に
一度でもいい から」とは、被害当事者を代表できる立場でないのなら、書くべきではないと指摘しておきます。
加害国であるアメリカが原爆投下という戦争犯罪と人道に対する罪を認め、被害者に謝罪と賠償をすべきである点には同意しますし、これは市民レベルでの国際的な同意であるとも認識しています。私はトルーマン大統領らに戦争犯罪と人道に対する罪で有罪判決をだした「原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島」の判決結果を基本的に支持しています。
http://www.k3.dion.ne.jp/~a-bomb/index.htm
ただし、アメリカの加害責任は、東京大空襲に代表される民間人への空爆もありますので、原爆投下だけで終わらせて良いとは考えていません。
http://uchya.blog109.fc2.com/blog-entry-1107.html
しかし、アメリカへ広島・長崎の原爆投下の謝罪を要求するのが、なぜか、日本の第二次世界大戦下における戦争犯罪や人道に対する罪への謝罪に関連する状況で目立つのは不思議ですね。まるで、原爆被害者の方達の犠牲を取引材料にしているようにみえてしまうのですけど。かえって日本人犠牲者への謝罪や和解が遠のかなければいいのですが。
http://azuryblue.blog72.fc2.com/blog-entry-248.html No. 5941
>kuronekoさん
アメリカ議会は、第二次世界大戦中の日系アメリカ人抑留については謝罪と賠償していましたっけ。オバマ大統領なら、今までの大統領達より、原爆投下に対して謝罪する可能性が高いかもしれませんね。広島の民衆法廷の勧告に含まれることは実行しようとしているときいたような。
_____________________
「勧告」
当法廷は以上の判決理由及び結論に基づきアメリカ合衆国に対し以下の勧告を行うものである。
アメリカ合衆国は、1945年8月6日及び同月9日の原爆投下が国際法に違反すること認め、核兵器の投下は国際法上違法であるという宣言を文書として国立博物館に永久に保存し公開しなければならない。
アメリカ合衆国は、広島・長崎で被爆したすべての被爆者及びその親族に対し、公式に謝罪し賠償を支払わなければならない。
アメリカ合衆国政府は、核兵器を使用した唯一の国家として二度と核兵器を使用しないこと約束しなければならない。
アメリカ合衆国は、核兵器を全面的に廃絶し、また地上から核兵器を廃絶するためのあらゆる努力をしなければならない。
アメリカ合衆国は、関係の場所に原爆被爆者慰霊碑を建立し、また原爆投下は国際法に違反することを教育制度の中で国民に教えなければならない。
「以上」。
_____________________
http://www.k3.dion.ne.jp/~a-bomb/index.htm No. 6018
日本の戦争犯罪は東京裁判で決着しています。
当事者の死刑も終わっていますし、いまさら謝罪とか言われてもねえ。
No. 6019
>No. 6018 [ 2009/06/02 10:07 ] むにゅう mQop/nM.
このエントリでとりあげた戦争犯罪について謝罪を行ったのは駐米日本大使と報道されています。したがって、こんな辺境の零細ブログで呟くより、こちらに意見を届けられた方がよろしいでしょう。
外務省ホームページ(日本語)-ご意見・ご感想コーナー
https://www3.mofa.go.jp/mofaj/mail/qa.html
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山本七平氏の「弁慶がな、ぎなた」読み No.2
山本七平氏による佐伯真光氏に対する批判内容は、以下の通りだと前エントリでご紹介したが、ちょっと舌足らずなところがあるので追記して再...
[2009/05/12 07:59]
URL
東海林さだおがいいなぁ
駐米大使の謝罪
Japan ambassador apologizes for Bataan Death March - 第二次世界大戦当時、フィリピンのバターン半島で、日本軍が捕虜約78,000人(フィリピン人66,000人、アメリカ人12,000人)を食べ物や水なしで長い距離を歩かせ、途中11,000人あまりが亡くなった「バターン死の行進
[2009/06/02 09:07]
URL
壊れる前に…