「
母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか / 斉藤環」
この本を知ったのは、
あるはてな匿名ダイアリーについていたトラックバックからだった。タイトルから検索してみると、レビューエントリに行き着いた。
『
母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか / 斉藤環 - ビールを飲みながら考えてみた…』
このエントリでは、内容概略を知るに、ほぼこれで十分なほど網羅されているが、実際に本を読むと何ともいえない怖さがある。この書籍が映し出す怖さは、女性として育ってきた身には非常に腑に落ちることが多々あるのだが、おそらくは男性には実感として感じられないかもしれないとは思った。ただし、この書籍の著者は男性である。そして、「それ」の存在を描写するのに、著者の男性ジェンダーが貢献したのだろうとは思えた。なぜかジェンダー女性と男性で違いがある引きこもり治療の第一人者と紹介される著者が、実感を持てないながら、そこに「何か」があることに気づいたからこそ、この書籍がまとまったのだろうと。
前書きで著者が、ジェンダーに関する自らのスタンスを語っている。
ファルス(ペニス)中心主義という「偏見」にさえ陥らなければ、精神分析とフェミニズムはきわめて相性がよいのですが、このことからもおわかりの通り、私は「ジェンダー」の考え方を全面的に肯定します。男性であり、女性であるということは、ほぼ完全に社会的・文化的な慣習によって支えられた区分に過ぎず、そこにはいかなる生物学的な本質も関係していない。精神分析フェミニズムに近い私は、これまでこの前提を疑ったことは一度もありません。
また、
(略)むしろ、フロイト=ラカンの理論的枠組みにおいてはじめて、「母性本能」が否定されえたという事実を、もう一度強調しておきましょう。
といった記述があるのは興味深い。
これまでに読んだ、上野千鶴子氏などの著作で、「父性支配」と呼ばれる支配が力によるもの、「母性支配」と呼ばれる支配が心を縛るものと、非常におおざっぱな理解をしていたのだが、この書籍では「母性支配」というか、母親による支配が指摘されている。
「母の自己犠牲と娘の罪悪感」と小見出しの付いた箇所にはこうある。
高石氏は、男性的世界の背景に、「確実に母と娘の支配する文化が存在する」としています。「それは『申し訳なさ』を媒介とした対象支配の渦巻く文化」というのですが、(略)簡単にいえば、(略)母親は娘に母性的に奉仕し、娘に「申し訳ない」と感じさせることによって、娘を支配する、ということです。こうした「申し訳なさ」の問題は、我が国に精神分析を導入した古澤平作氏の「阿闍世コンプレックス」としてはじめて取り上げられました。(略)
こうした自己犠牲的な奉仕による支配のことを、高石氏は「マゾヒスティック・コントロール」と命名しています。(略)マゾヒスティック・コントロールに反応するためには、相手の努力を理解し、「申し訳ない」と感ずるだけの鋭さが必要です。
考えてみれば、「母親」の場合だけではなく、「マゾヒスティック・コントロール」の出現する状況というのは結構あるかもしれない。「申し訳ない」と感じる原因は、「相手の努力」に限らないだろうから。
去年、『
「自由」ってどういうものなのか、よく解らない 』と題したエントリをまとめた。読了後に振り返れば、あのエントリで取り上げていた内容も「
母は娘の人生を支配する」で似た指摘がなされていた。去年のエントリでは、幼少期からの教育において『男性には恐怖と弱さを抑えるという課題を課される傾向』『女性には怒りと攻撃を抑制するという課題が課される傾向』があると報告される文献があることや、女の子の命名イメージランキングが「優しい・思いやり」がトップで以下、「愛し、愛される」「美しい、きれい」等が続く調査結果があることに言及した。この時、私の念頭にあったのは、「家族」「世間」がそれぞれのジェンダーに及ぼす影響だった。
女性は男性よりもはるかに「見られる性」であるため、自分がどう見られているかを常に意識させられるのである。(略)
(略)
小さな女の子の人生のきわめて早期に、美しさと聞き分けのよさは、女らしさの目印として提示されるが、美しさも聞き分けのよさも、女の子の赤ちゃんの無意識の形成時に周囲の人々から教え込まれた価値でしかない。
「見られる性」といった概念は、
上野千鶴子氏の「発情装置」などから私は得ている。
この、「周囲の人々」の中で重点があるのは、もっとも接触の多い「母親」であるのは当然といえば当然ではある。この、自分がどう見られるか等を含めた概念として、斉藤氏は「身体性」と表現しているようだ。上記に続く「しつけによる身体性の伝達」と小見出しのついた段落で、こう来る。
女性たちにおける身体性へのこだわりは、これほどまでに根源的な物なのです。もしそうだとすれば、娘たちに「女性らしい」身体性を正確に教えられるのは、母親をおいてほかにありません。しかし、容易に予想されるように、しつけによる望ましい身体性の伝達とは、とりもなおさず娘の身体を支配することにつながってしまうでしょう。(略)女性が女性らしくあるためには、その出発点において、つねに母親による支配を受け入れるという手順が必要とされるからです。
去年の暮れ、「
スカートの履き方」というエントリを書いた。たしかに「女性らしくある」為のしつけは、母によってなされた。とてもエントリには書けない色々、書ききれない細々とした諸々も、ある。つまりは、今回読んだ
この本は、その他にも心当たりに色々と激突してくる、大変興味深い内容だった。
まとめ部分で、「母娘関係」のこじれを解消する方策として、斉藤氏は「第三者」の存在の重要性について述べる。
エリアシェフのいう「プラトニックな近親相姦」関係にあって疎外されているのは、父親の立場でした。ならば、父親の復権こそが問題解決の鍵をにぎっているのでしょうか。
理屈のうえでは、確かにそうなります。その意味で、本書はまず何よりも父親に読んでもらいたい本でもあるのです。私自身がそうであったように、母娘関係の問題に気づいている男性はほとんどいないに等しいのが現状です。
もちろん、父親に限らず、女性をも含む「第三者」という話ではある事は、これに続くくだりで補足されている。
多分「日本社会」の背景に潜むジェンダーの問題をも射程に収めている、広く読まれて欲しい本だと個人的に思ったのだった。
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