「基本的には男が女をレイプする図式」と指摘する板坂氏は、そういう図式に乗りたい人はそうすればいい話であり、そうでないカップルも現実にいると指摘した上でこう続ける。
少女を含む女性3人をレイプして妊娠や中絶をさせるという内容の日本製のパソコンゲームソフトに海外で批判が高まっている。 日本での販売中止を求める抗議活動を国際人権団体が始めた。このゲームは2月に英国の国会で問題になり、ビデオ・書籍のネット販売大手「アマゾン」が扱いを中止した。しかし、児童ポルノなどの規制が緩い日本では今でも流通している。 このゲームは、未成年と見られる女子2人とその母親を電車内で痴漢した後にレイプし妊娠や中絶をさせるまでを、コンピューターグラフィックスを使った画像で疑似体験するという内容。(略)
「レイプレイ」というこの性犯罪疑似体験PCゲームは、痴漢行為を通報され逮捕された復讐に、釈放後、自分を通報した少女とその母親と妹に対し、痴漢からはじまり、レイプし、性奴隷として服従させるため調教し、妊娠や中絶をさせるストーリーだそうだ。ストーリーを書き写すだけでうんざりしたが、続けよう。
国際人権団体と報道されている「
Equality Now」から出た声明"Japan: Rape simulator games and the normalization of sexual violence"は、「
ポルノ・買春問題研究会 - レイプレイ問題に和訳文が掲載されている。この勧告で指摘されている背景の一部を引用すると、
海外では「ヘンタイ」という名で知られた、マンガ形式の過激なポルノグラフィは、コミック本、アニメ、パソコンゲーム、インターネット上の娯楽といった多様なメディアで存在し、日本では簡単に入手でき、その使用は広く許容されています。(略)女性や子どもに対するレイプやセクシュアル・ハラスメント、ストーカー行為を含むパソコンゲームは日本で多数生産され続けているが、それは、ほかの形態のメディアの「ヘンタイ」よりもユーザーに与える影響力が強い。というのは、例えば「レイプレイ」がそうであるように、ゲームのプレーヤーが、レイプと性的攻撃を疑似体験するために発生する出来事を画面上のペニスと手を操作することによってコントロールできるからです。
…このゲームがとりわけ問題視されたのは、プレイヤーが、能動的に性犯罪を犯す状況を選ぶ点が注目されたから。
問題点としてこう指摘される。
児童ポルノはようやく1999年児童買春・児童ポルノ処罰法で禁止されたものの、パソコンゲームのポルノは同法の児童ポルノの定義に該当しないため野放し状態になっています。
日本政府は、女性差別撤廃条約を1985年に批准し、政府の条約遵守を審査する最新の定期報告書を2003年に女性差別撤廃委員会へ提出しました。日本政府は報告書で、「夫またはパートナーの暴力、性犯罪、売買春、セクシュアル・ハラスメント、ストーカー行為は、女性の人権の深刻な侵害である」ことを認めました。(略)
女性差別撤廃委員会は、「女性に対する暴力」に関する一般的勧告第19号において次のことを明示ました。「ジェンダーに基づく暴力は、女性が男性との平等を基礎にして諸々の権利自由を享受することを著しく困難にする差別の一形態である」。とりわけ委員会は次のコメントをした。「女性を男性の従属物とみなし、定型化された役割を割り当てる伝統的態度は、暴力と強制をともなう社会的慣行を広範囲にわたって永続化します。……そうした偏見や社会的慣行は、ジェンダーに基づく暴力を女性保護の一形態として、あるいは女性をコントロールする方法の一形態として正当化するおそれがある。……そのような伝統的態度はまた、ポルノグラフィが増殖するのを助長するし、女性を個人としてではなくセックスの対象物として商業的に搾取する表現やその他の産業を促進するものでもあります。そしてそれがまたジェンダーに基づく暴力を助長することになっています」。(略)委員会はまた、「強姦に対する処罰が相対的に軽いこと」(略)裁判で強姦を認定するさい、女性が実際に性交に合意していたかどうかではなく、多くの場合、加害者がどの程度暴力を行使したか、および/または被害者がどの程度抵抗したかを裁判官は調べます。(略)「レイプレイ」のようなパソコンゲームは、女性に対する暴力を永続化する態度と固定観念を容認する。日本政府は、そうしたゲームの氾濫を放置するのではなく、女性の平等を妨げるそのような態度と社会的慣行を克服する有効な措置を取るべきであります。
(強調は引用者)
ここで「伝統的態度」「社会的慣行」「女性保護の一形態」「女性をコントロールする方法の一形態」に、私は心当たりがあった。しかし、この「レイプレイ」問題をとりあげたエントリを見ていると、解っていて当然の前提として踏まえておられる様子の女性ブロガーはいらっしゃるようだったが、多くの議論において、そもそも指摘されている女性差別についての温度差の大きさを感じて、違和感を感じて仕方なかった。だから、これに先立つ二つのエントリ、「
なら、その言葉を使わずに試してみよう」『
「それ」がもたらす「社会の『常識』」』を書いた。
前後するが、「レイプレイ」のゲーム内容として、こう指摘されている。
「レイプレイ」というゲームの目的は、母と二人の娘がレイプを「喜び」始めるようになるまで、プレーヤーにレイプを繰り返させることにあります。
「
女っていうのは本当は強姦されたがっているんだ」という「強姦神話」があることはすでに紹介した。このゲームは、それをプレイヤーに能動的に参加させ、それを達成目標に設定しているというのだから、それは非難されるだろう。
Equality Nowのロンドン支局のJacqui Hunt氏は、そのゲームを
"extremely problematic at many levels".
"The suggestion that the gamer has transformed the violent crime of rape into an act of sex indicates all too well the danger of objectifying and dehumanising women and normalising violence against them," she said.
色々なレベルで極度に問題がある。プレイヤーが暴力犯罪である強姦を単なる性行為に変換していることが全てをよく物語っている。それが示すところは、女性のモノ化と非人間化であり、女性に対する暴力の日常化である。
と評したそうだ。暴力犯罪である強姦と性行為は違うという前提が曖昧なのでは無かろうか?という指摘は、これまでも再三、私の立ち回り先では指摘されていることだ。
ゲームはフィクションだから、という擁護意見もよく目にした。しかし、イクォリティナウの声明には「ゲーム内容」として、こう言及されている。
プレーヤーはまず、画面上の手を操作して電車に乗った女性や少女を性的に攻撃します。このような電車内での女性への性的攻撃が東京の実生活における現実に酷似している事実には困惑を覚えます。
…フィクションといっても、火星人の足でちょうちょ結びの技術を競うわけではない。実際に存在する存在や状況を踏まえ、現実に酷似させた性犯罪を体験するのだ。
そして、こういった動きが出た。
自民党の山谷えり子女性局長(参院議員)は22日、国会内で記者会見し、日本の業者が開発、販売している「性暴力ゲーム」を批判し、実態を調査するとともに規制策を検討していくことを明らかにした。(略)
…こうして、私の立ち回り先で、この「陵辱系ゲーム」が話題となった。「表現の自由」を守るべき、と。
でも、それは女性差別だから規制すべきでは?に対する反論が「表現の自由」って、規制の前提は一体どこに行ったのだろう?
私も、原則的には「表現の自由」を守るべき、規制には慎重であるべきと考えるし、ましてや山谷えり子氏が主導する規制策などとんでもない。
しかし。私は、性犯罪被害者の方の、こんなコメントを目にしている。
「被害者の気持ちだけが優先されている、お前らは加害者と同じだ。もっと加害者を思いやれ」「加害者を批判するな、その程度の事受け入れろ」と言う方がいました。
その事が原因でやっとの思いで見つけた自助サークルでしたが、止めました。
そして新にクローズドのネット上の自助サークルを探し、そこでもまた性的な脅迫を受けました。
そして更にオフでの活動がメインとしていた自助サークル(サイト活動はメインではない)でボランティアで運営を手伝っていた時も「性被害なんて被害者が悪いんだろ、このフェミ ナチ」というような中傷や性的な脅迫を受けました。
これはネット特有の事ではないです。
むしろリアルでこそ、性犯罪、セクハラの話題なんて出来ません。
被害者だと知られたら、更なる暴力を受けるからです。
ひたすら黙って隠し通して生きていくしかないです。(略)
ネットでしか発言できません。
リアルでは、被害者の落ち度をあげつらう意見しか聞かれません。(略)
被害者への抑圧が想像できない方は、自由に意見を言いたい放題できる方は、性犯罪の被害者が発信する事の難しさなど理解出来ないでしょう。
一度でも性被害の経験をしてしまうと、自由に意見なんて出来ないのに、居場所なんてないのに、リアルでは必死に取り繕って嘘の笑顔、偽りの人生を送るしかないのに。
私は、ブログで意見を発信したいと思っています。
それが出来ないのは、閉じている本来なら信頼出来る被害者のための場所の自助サークルですら嫌がらせ、脅迫が後を絶たないからです。
そういう経験をしているからです。
「セクハラは悪い」という(私に取っては)当たり前の考え、「二次加害を批判する」という(私に取っては)当たり前の行動ですら次々と「そして、被害者の「傷ついた」という意見というのは、最強です。」という最大限の貶め方をして、加害者の自覚もない加害者が沸いて出てくる現実。
前のエントリーでも書きましたが、「セクハラは悪」「二次加害が悪」という至極単純な事なのに、性的に侮辱されても、性的に脅迫されても容認しなくてはいけない、という抑圧。
だからブログなんて出来るわけがない。
ある性犯罪被害者の方は、 裁判員制度で性犯罪被害者のプライバシーが守られなかった体験談を、アジア女性資料センターや各所に送り、訴えておられた。その一節。被害者の情報が漏洩した結果、
(略)そのため、被害者は、何の落ち度もないにも関わらず、緊張と屈辱に満ちた生活を強いられることになります。
被害者は、好んで被害に遭ったわけではありません。被害に遭ったからといって、夢や希望、趣味、特技、好きなもの、友人、家族。そういったものは何も変わっていません。
ですが、不特定多数の人に知られることで、人とのつながりが脅威に変わってしまい、今まで築いてきたささやかな世界が壊されてしまいます。
わたし自身の経験ですが、今ほど普及していなかったにも関わらず、インターネットでさんざん中傷され、
「かわいいのか」と性的な興味を抱かれたり、
「レイプされた女なら何をしてもいい」と人間扱いされず、とても怖い思いをしました。見知らぬ人がわざわざ見に来て指をさされ、ひそひそ噂されたりしたこともありました。
(略)
どんな人に、どんなことを、どこまで話すか、という、誰もが持っている当たり前の選択肢を、何も悪くない被害者が奪われてしまうのは、あまりにひどすぎます。
ましてや性に関することです。 信用できる人に、打ち明けるという選択肢すらなくなるのは、ひどすぎます。
「表現の自由」って誰のものですか?
性犯罪の被害者の方が沈黙を強いられる社会で、性犯罪を疑似体験するパソコンゲームを楽しむ自由って何ですか?
でも、このパソコンゲームはあんまりだと思っても、山谷えり子氏達が主導する表現規制では賛同できない。「表現の自由」が行き渡っていなくても不十分でも、弊害の懸念の方が大きい規制では。だいたい、この社会がこうなんだから、極端なプロットのパソコンゲームを少々規制したところでそう変わるとは思えない。
若桑みどり氏は著書「お姫様とジェンダー アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門」で、ディズニーの眠り姫を分析した章において、姫が紡錘でさされて眠りについたのが性体験の失敗の暗喩であると紹介する。眠り姫の両親は、紡錘を全て退け姫を森に隠すことで、性に関する知識から遠ざけたと。
なぜなら、その運命の紡錘が危険だということを彼女は知らないからだ。性について教えられなかったために、自分を襲ってくる性の危機に立ち向かい、自らそれを防ぐことができなかったのだ。
大学教員である若桑氏は、しばしば少女期に性犯罪にあった女性を教え子にもち、彼女らの痛みに憤り、こう述べる。
(略)少女たちにもいかに闘うか、いかに警戒するか、いかに防御し、主張すべきかを教えるべきだ。(略)このような性犯罪は、実は男性中心型社会、男性の性の暴力性を基本において肯定する文化がある限り、絶対に無くならない。(略)彼らは男子に、「女性を暴力で侵してはならない」という「教育」をしない。女子にのみ、「ひとりで森を歩くと襲われるよ」と教える。「男は狼だ」と教える。男子に「人間は狼であってはならない」とは教えない。(略)最近、小学生や幼児に対して性を教えるジェンダーフリー教育が週刊誌等でしきりと批判されている。その趣旨は「五歳の子供には早すぎる」とか、「露骨」すぎるとかいうものだ。では、彼らは、五歳の子に暴行を働く犯罪者に対して『早すぎる』といってやめさせることができるのだろうか?無知であるが故の被害者が、年間どれほどいるのだろうか?
「お姫様とジェンダー アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門」若桑みどり著 ちくま新書 2003/6/10第一刷 ISBN4-480-06115-0
私は『
Equality Now』の問題点指摘自体は妥当だと認識している。だが、彼女らは、日本の女性差別に対して懸念を表明しておきながら、極端なプロットのエロゲを規制するぐらいで、性差別構造がなんとかなると思っていたのだろうか。正直、甘いと思う。
再三、引用させていただいてる方のコメントだが、このようにも述べられていた。
性教育は非常に大切だと思っているのですが、今は性教育を否定する動きの方が強いですし、私たちの時はまともな性教育はなかったです。
性教育をまともに受けずポルノだけで知識を得て、メデイアの伝え方もポルノの延長、大人には性被害者は隙があるからと教えられる。このような環境で育つ子供はどのような価値観になるでしょう。
ならば、まともな、性教育を。
『
Equality Now』が女性差別に懸念を表するのなら、そちらに重点を置くべきではなかっただろうか。
そして、「パソコンゲームはフィクションに過ぎない」「だって、現実とは隔絶してるじゃないか」「レイプ表現はファンタジー」と胸を張れる社会を望むのなら、そちらを向いてみた方がいいのではないか。
まちがっても、
また性に対しては「人間にとっての性行動は、単に生殖につながるだけのものではなく、男女のコミュニケーションとして愛情を育て、確かめあい、互いに充足感を求めようとする行動である」と教科書で“愛と性の文化”を強調しています。
程度の記述に、「違和感を覚えるところも多い」といっているようでははじまるまい。
…おや、この人は? 奇遇ですね。