つい、この前、ネットでの縁は選択縁の最たるものだといった主旨の発言をした。
当然、血縁ではない。もちろん、地縁でもない。これらの(大抵の場合はほとんど)選択のできない縁とは違う、自ら選んだ縁だ。
インターネットを介して、アメリカにいる人やオーストラリアにいる人と話すこともできるが、わざわざ話しかけるのだから、この人と話すことができれば面白そうという動機があるからこそ話しかける。そして、継続して話しかけに赴いて、友人と名乗らせてもらっても差し支えなさそうな関係を築くこともある。
そんな経緯をたくさん経て、あらたに話が合う人と出会うこともある。
あるいは、話が合うと思っていた人の、自分自身の価値観に照らして否定的に評価せざるをえない発言や、不信感をもってしまう振る舞いを見ることもある。その結果、友人と考えて差し支えなかったはずの交友関係が疎遠になることもある。
これは、リアルの友人にだって、しばしば起こることだろう。ましてや、それよりもか細い、ネットの回線を通じた選択縁である交友関係なら、いわずもがな。
では、自分自身の価値観に照らして否定的に評価せざるをえない発言や、不信感をもってしまう振る舞いを見ても、交流を疎遠にせず、我慢すべきなのか?
他の人の価値観は知らないが、私はそうは考えない。初等教育や中等教育で同じような国語教育を受けているらしい者同志といったって、言葉が伝わらない事などざらにある。ネットでの交友関係ならば余計、よって立つ基盤が違うもの同志が出会っているのだから、考えの基本が違っているのは当たり前。同じ言葉でも違ったニュアンスで受け取ってしまうことも当たり前。ましてや、話がすれ違いだしたら。。。
ならば、無理に交流して互いに不快になることはない筈だ。場合によっては、すれ違いの経緯で、言葉の暴力が発生する場合だってあるのだ。一方が暴力的と受け取る事態が生じるのなら、交流を避ける事は危機管理の側面をももつ。
こうして交友関係があった物同士が疎遠になった場合、その双方と交友のある人にとって肯定的に受け取れられる状態ではないだろう。
でも、その疎遠な状態を公に批判する事は、お互いに交友すべきであるという意思の表明として作用しかねない。ましてや、その批判に「袂を別って分断されていくことをよしとする」「勢力と闘う上での利敵行為じゃないのか、という提起」といった強い意味をもつ言葉を使って批判するなら。
「袂を別って分断されていくことをよしとする」事に対して批判的であると読み取れる意見を表明した人がいる。
その人に「
『連帯』を至上命題とすることは、(略)異論や批判を封殺する方向に働きがちです。私はその方をむしろ懸念します。(略)なぜそれほどまでに、批判や対立を問題視されるのか」と尋ねた人がいる。
答として「基本的な方向性を同じくする同志が啀み合って内ゲバに力を割いてどうするのか、それは、自由と民主主義を骨抜きにしようという勢力と闘う上での利敵行為じゃないのか、という提起であって、プライオリティの問題」との返答だった。
(質問した方が「議論するつもりはない」としながら、自ブログに記した見解は18日付のこちらと20日付のこちら) そこで別の人が、『では、
ある人物に対して、その振る舞いに不信感をもったから係わり合いになるのはよそうと判断した。これは「利敵行為」なのか』と質問を重ねた。
そしてあがったのが『
「排除の論理」に与したくない』と題されたエントリだった。
係わり合いにならないようにしようという判断が利敵行為か否かという質問の後、直接のコメントレスポンスがなく、排除の論理に与したくないというタイトルと論旨の文章が公開されている。
「係わり合いにならない」=「排除」という図式は容易に成立するが、「係わり合いに
なる」=「排除」という図式が成立するとは考えにくい。
上記の質問者の振る舞いを利敵行為であると指摘しているのだろうか?
このやりとりが、私にとって気になる理由は、大きくは二つある。
上述の『
振る舞いに不信感をもったから係わり合いにならないように判断された人物』は、私自身も同時期に
係わり合いを避けた人物であることが第1点。そしてもう一点。その頃以降、『
「排除の論理」に与したくない』人自身が
交流していない様子だからだ。
どう受け取ればいいのかと困惑してしまったのだが、まさか、自身もしていることをすべきでないという意図の文章というわけではないだろう。係わり合いを避けた方がいいと判断した人物を避けることは、「排除の論理」やら「全否定」といった大きな話ではなく、単に、話が合う人と話をしたい、話しているとぶつかってしまう相手は避けようという、卑近な話に過ぎないのだから。
ぶつからずに話の合う人と話をしたい、それだけの話だと了承してほしい。
もちろん、私だって(恐らくは私と交流のある人達も)、他の誰が誰と交流しようが口出しをすることは
(超弩級のよほどとんでもなく重い理由がない限り)無い。それを心配しているのなら、そんな心配は必要ない。それぞれの人が話が通じやすい人と話をすればいいだけのことなのだから。
「それはそれ、これはこれ」として?
だが、どれがそれで、どれがこれかは、常に誰にとっても自明で共通のことではない。
一般論として「それはそれ、これはこれ」といった文章を表現することもあるだろう。
しかし、それはそれ、これはこれって、実際に起こった場合でそれぞれ、関係したもの同士で確認しあうものじゃないのか。アメリカ政府が、米軍兵士犯罪はそれはそれで、基地外居住はこれはこれ、とか言い出したら、私はちょっと待てと思うし。
「それはそれ、これはこれ」であっても、どれがそれで、どれがこれかは、個人の主観によって切り分けられる。ある個人のそれこれの切り分け基準が、他の個人に共有されていなくても、そんなの仕方なかろう。
トラックバックは送らないから、レスポンスはいらないよ?
あなたの選択にも、交友関係にも口出しする気はない。

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