…タイトルはイメージです。
ちなみに、
騎士と書いた後に括弧して「ナイト」と書かないといけないのがお約束らしいのだが、「獅子牙騎士団」をどう英訳したらいいか解らなかった。ミラージュ騎士団ならミラージュナイツの筈なんだけどなぁ。
与太はともかく。
このエントリは
(っつか、ブログそのものがそうなんだけど(^^;)はちらしの裏。この件については、今後、自分でエントリを上げることはまず無いだろうと思っていたけど、どうにも気になる点が出てしまったので、人目に触れるところにメモっておきたくなった。だから、解る人にだけわかるであろう訳の解らない文章なので、それでも読もうという物好きな方はそのつもりで
(ひどい前置きじゃ)。
言及リンクのお知らせにトラックバックをお送りしてしまう方々には申し訳ありません。
また、私が今回気になった点は、とある方(一応複数の筈)の提示しているらしい論点ではありますが、もし、その論点を提示した心当たりのある方がコメントにお越しになっても、多分、私はその方と意思疎通可能な言葉を使いこなせないだろうと予想します。これは私の資質や能力が足りないからに他ならないので、あらかじめお断りしておきます。
前置きでしつこく指示代名詞で示している件とは、いわゆる『左の方の水伝騒動』。
水伝騒動と呼ばれているわりに、実は、かなり初期段階から水伝、というか、「水からの伝言」の真偽なんて偽の方で決着ついているので、この名称は誤解を招き
(と言うか、実際誤解した様子のニセ科学批判の人達がいたような)、あまり適切ではないように思われるので、ここでは無駄な抵抗ではあるがHM騒動とでもしておく。
この件に関して、私が最も早くにあげたエントリは、
2008/01/14付の『
RE;謎の独り言』。
もう、ずいぶん前になってしまった様な気がする。そして、これがその後も延々くすぶり続けるとは、さすがに予想していなかった。
あのエントリでは諸般の事情を考え合わせ、最も摩擦の少ない形になることを願って、『共感』し同意する他所様のブログを紹介するという、かなりためらいがちの意思表示の形をとった。同意するブログエントリを片っ端から列挙する形をとったので薄まってしまったが、このHM騒動に関して、私が最初に、そして最も重く「それはまずい」と感じた点は、それに先立つエントリの
コメントに2008/01/09付でgegengaさん宛に書いた
科学的なあるいは論理的な「根拠」より「感じとる気持ち」を優先する…それは靖国史観への一里塚。
と、謎の独り言返し(笑)。ね、じゃばさん?
だった。つまり、「
くりずの雑感」さん述べるところの『
自分の考えに都合の良い話であれば真偽は問わない人々』への疑問だ。
この疑問は払拭されずに継続している。
感情に心地よい話であれば真偽を問わずに、というより偽りの可能性が高いことを承知
(これはかなり婉曲な表現だが)で自分の意見を補強する材料として採用する行動を、批判の目で見ないわけにはいかない。「我々日本人は優れた民族だ、だから(以下略)」と言った考えを政治指導者が広めた時代があった記憶を、私は語り継がれている。
だから、自分の意見を補強する材料として真偽を問わないエピソードを採用した人物であるV氏と、その行動を批判したT氏がいた場合、そのいずれかを正しいと判断するかと考えると、T氏が正しいと判断する。この場合、T氏の批判手法を問題とするのは枝葉末節のことだろう(ただし、私はT氏の批判手法に問題があるとは考えていない、
このkirikoさんの意見に同意)。
しかし、いまだにT氏の批判手法について議論をし続けている人達がいるらしい。私には正直、その議論が何を目的としているのかよく解らない上に、大変読みづらい文章が続くのではあるが、どうやら「あるブログ主からあるブログ主への批判に『愛』がなかった事はよくなかった」(批判に愛が必要)という発想であるらしいことは読み取れる
(kojitakenさんによる200/6/14付の記事を参考にさせていただいている)。
では、「批判に『愛』が必要」と考える人は、『愛』が感じられる批判なら受け入れるという発想であると解釈しても無理はないだろう。ならば、『愛』が感じられる批判であれば、その批判の妥当性は問わないのだろうか。
このケース(*)において出てきた「ブログからブログへの批判に『愛』が必要」という発想では、批判を受け入れるかどうかは、妥当性より『愛』であるということになってしまうのだが。
ということは、言葉の受け手として『愛』を感じとれば「愛する人を守るためにテロとの戦いに赴くように」とか「懲役刑を宣告されて、刑が終わって出所してきたら、愛する人を傷つけるかもしれない犯罪被疑者に死刑を」とか「もしかしたらあなたの愛する人を害したかもしれない被告人の弁護士はけしからんから懲戒請求を」とかの声にも、妥当性を検討せずに応じるのだろうか。
T氏の批判の手法の巧拙や、謝罪要求していると相手に感じさせたコメントを問題視する文章を見かける度に、疑問が湧く。
では、この人は、自分の意見を補強する材料として偽りの話を採用する態度を、是とするのだろうか? と。
V氏よりT氏の方が間違っていないとの立場をとっている者の中に、T氏が無謬であると考えている人物などいないだろう。神様じゃないんだもの、誤読が皆無であるとは思ってない
(私のコメントも誤読されている…笑)。書き間違いがないとも思わない。
でも、それをT氏の言葉に集中して検証する態度とはなんだろうと、1月以来のHM騒動を見て、不思議に思う。
繰り返しになるけど。
いまだに批判手法の巧拙を取りざたしている人を見かけると、つい、思ってしまう。
この人にとっては、"自分の主張を補強する為に、偽りの話を偽りでもかまわないつもりで採用し、それと指摘されて非を認めようとしなかった"行動って、優先度の低い問題なんだ、と。
附記1;
ちょっと見かけて気に入ったので引用。
タンポポ魂
踏みにじられても
食いちぎられても
死にもしない
枯れもしない
その根強さ
そしてつねに
太陽に向かって咲く
その明るさ
わたしはそれを
わたしの魂とする
坂村真民--詩集 「念ずれば花開く」 より
たんぽぽ、英名ではdandelion。これは、ギザギザした葉が
ライオンの牙を連想させることによるフランス語の「ライオンの歯」に由来する。
附記2;
私個人の見解だが、言葉に込める『愛』、ましてやネット上で不特定多数に向けたテキストの言葉に込める『愛』なんて、いくらでも偽れると考えている。
そして、有りもしない『愛』など装わない事が誠実さだろうと考える。ちなみに、私がもちあわせている、今年度分計上の「誠実さ」はそろそろ底をつきそうである。
* V氏は自身の主張を補強するために言及した「水伝」がニセ科学であることを早い段階で認めているし(
08/01/07の追記で明記)、それ以前でも
「科学的には証明はされていないということらしいですが・・私的はそれはどちらでもいいことです」との言及がある。