(ほんの少し語を追加、参考にしている記事を一つ追加)
また、なぞのエントリを書いている。
解る人にだけ解ってもらえればいいと思っている、個人的な覚え書きです。
大変優れたエントリを公開してくださった方がいらっしゃったので、リンクを貼らせていただきたくなったのが、なぞの覚え書きを書いておきたくなった動機。
そして、経緯が推移するにつれ、違和感が大きくなる一方なのも、このエントリを上げておく動機の一つ。
「
七重のまったり日記」さんの5月8日付で「
問おう、汝が「マリア」か。 」
七重さんの見解に同意します。
以下は、既にコメント欄のレスポンス等で書いたことのある内容だが、改めて加筆修正して再掲。直接指摘すべきだったというご批判はあろうかと思う。しかし、それまでの、一月以前にも軽い意見の相違を表明した事はあり、それに対する態度の記憶が、直接の批判する意思をなくす動機となった。一月でのさまざまな対応も、同じく。
そして、結果的に、他の人がやった批判の結果が、今現在に通じている訳だ。
彼女は「そのやり方はちゃうんちゃうの、と意見した人たちが、ほとんど謝罪させられた」という見解を表明していた。この記述を含む部分はとあるアナロジーであり、追記によってアナロジーの方向性を変更した見解が追加されたが、この部分は、アナロジーの前提となる記述者の事実認識として書かれた部分だったので、追記による修正対象ではないと見るべきだろう。
まず、方々のブログやコメント欄で再三指摘されているとおりに、指摘の方法を批判するのは論点ずらしであることが、この短い文章に含まれた問題点の第1点目。
そして、その意見を述べた人達が後に意見を撤回なり変更なりをしたのは、根気よく事実や問題点をコメント欄や自ブログのエントリで指摘して回った人達がいたからだ。「謝罪させられた」という認識をもっているということは、間違って認識したことを指摘し納得してもらったのではなく、同調圧力等によって強権的に考えを曲げさせたと理解していることに示してしまう。つまりは、それらの人達の思考の積み重ねを否定する結論を導くエントリだったのだ、あれは。これが第2点目。つまりあのエントリが「批判している」ものは、まさにそれになってしまっていたのだ。 …もともと、そしてこの件に関しては継続的に、大元の一次情報に当たらずに結論を急いで、その結果として対応が理不尽となった複数の人達の行動があった。それが事態を混迷させることに対し、「知性的に行動すべきではないか」という指摘が為されると、
「知性や論理にこだわりすぎではないか」「感情だって大切ではないか」との反論が発生するのを見た。論点ずらしと呼んでいいのかさえも迷う意見ではないのか。
そういう「感情を大切にする」側に「共感」する人達の中には、歴史修正主義に批判的だったり、あるいは光市母子殺害事件の弁護団懲戒請求騒動や死刑判決要求の動きに批判的だったりする人が、私の目につく界隈では少なくないようなのだ。それらも「大元の一次情報に当たらずに結論を急いで」感情的に心地よい方に向かった結果ではなかったのか。
実に不思議でならない。
いろいろと参考にしている記事の抜き書きその他。
・「
HERIKUTSUなる日々」さんの、2008年05月08日 付『
テーマは何であろうとも、発語した瞬間に「あなたの言葉」が議題の中心になる。』
つまり、jabberwockが一度発語したことというのは、それが音楽であろうと、それ以外のことであろうとも、その対象、以上にjabberwock自身の評価に関わってくるものと考える。(略)状況がどのように変わろうと、「あなたの意見」は、なによりも「あなた自身の対外評価」にかかわってくるものであり、じつは「状況に影響されて変化部分」なんてほとんどない。つねに「議題はあなたの言葉そのもの」だ。
同意し、自戒します。
・「
遠方からの手紙」さんの、2008.05.07 付『
「権力批判」だけしてりゃ世の中は変るのか』
誰しも、誰かに憎まれることになったり、おかしな人に絡まれたり、粘着されることになったりするような、ややこしくて面倒なことになど、巻き込まれたくはないのも、これまた当然である。
だが、であればこそ、そのような人に憎まれてしまうことも、面倒なことに巻き込まれることも意に介さずに、間違った言論やおかしな風潮に対して決然と批判を続ける人がいるとすれば、そのような人こそまさに貴重な存在というべきだろう。
・「
nagonaguの日記」さんの、2008年05月07日 付「
「批判」をアレルゲンとする人々」
小学校の道徳の授業でも水伝が採用されているという話しを知ってしまうと、科学の権威を騙る「似非」科学を警戒せよというテーゼはスコブル権力に関わる問題であり政治的である。われわれ一般市民が権力に向かい合うときに必要なリテラシーがそこにある。(略)名護市の沿岸域に造られようとしている米軍基地の環境アセスが、科学的に行なわれるかどうかは非常に重要である。(略)ここでは、科学への態度を政治的/ないしは個人的思惑で都合よくズラす人々は、権力に益する人々である。
・「
pokoponにっき」さんの、2008.05.06付「
公演blogか温習会blogか」
私とて、お温習い会に行って、芸の完成度に言及するような野暮はしたくない。けれども、ネット上に公開されている意見が、「世に問う」ものなのか「馴れ合いツール」なのかは簡単には判断がつかないのだ。特に社会的なテーマを扱った「主張する」blogだと後者であるとは判断がつきにくい。
・「
遠方からの手紙」さんの、2008.05.01 付「
今日はメーデーなのであった」
まず自分の頭でじっくり考えようともせずに、ただその場で思いついた程度の質問を次々と相手に浴びせたり、同じことを何度も何度も蒸し返したりするのは、けっして相手との 「対話」 を求める姿勢とは言わない。
・「
遠方からの手紙」さんの、2008.04.22 付『
前の記事「そんな映画など見たくもない」への追加』
「仲間割れはよくない」 という言葉は一見正当に聞こえる。だが、それもまた、ときとして同じように、「身内」からの批判を封殺する役割をする。そして、そのような 「内部」 や 「身内」 と思っている者からの批判を最も嫌う曖昧な 「仲間意識」というものは、なにかのきっかけさえあれば、昨日まで仲間だと思っていた者に対する激しい 「憎悪」 に容易に転化するものでもある。
…「身内」とは何かをひとまずおくとして、もし「身内」と思うのならばこそ、なぜその批判に素直に耳を傾けず感情的になるのだろう?
同エントリのなごなぐさんの(私信のような)コメントより
「批判」が自らに向けられていると感じた「感傷的」な人々は、誤読だろうとなんだろうと「私はそう感じた」です。
「感傷的」な人々にとって、誤読に基づく反駁は自己防衛です。
・「
模型とキャラ弁の日記 」さんの、2008.04.22 付『
要は○○でしょ』
自分は「仲間」を批判するのに、自分への批判は「内輪もめ」は良くないと批判内容に反論せずに批判行為自体を咎める人。
・「
玄倉川の岸辺」さんの、2008年04月19日付『
幻の謝罪要求』『「謝罪の義務」は合作による幻影』『「しつこく謝罪要求するたんぽぽ氏」というイメージは作り出したモンスターであって、現実のたんぽぽ氏とは無関係』
・「
模型とキャラ弁の日記 」さんの、2008.04.12 付『
価値否定論法』
価値否定論法は対象の「正しさ」自体ではなく「正しさ」の価値を否定する論法。
主に対象の「正しさ」を否定できなくてもそれを認めたくないときに使われます。(略)
価値否定論法のやっかいさはこういう認知的不協和の解消を提供するゆえに認知的不協和を抱えた人の支持を得やすいところにあります。(略)自らが「正しさ」を得ることが出来ないときや、相手に「正しさ」があり、その「正しさ」を否定できないときや、「正しさ」自体が自らの願望に沿わないとき、手に入らないブドウを酸っぱいと思いたがる有象無象の人間が、不協和を解消するために「正しさ」自体ではなく「正しさ」の価値を否定する論法に飛びつくのです。(略)不協和をありのままに受け入れられないという弱点を抱えた人間にとって不協和を解消してくれる価値否定論法はありがたいものですから、場合によって非常に強い効果を持つのは仕方がありません。
気になるコメントのあるところ。
http://d.hatena.ne.jp/PledgeCrew/20080506http://d.hatena.ne.jp/PledgeCrew/20080503http://d.hatena.ne.jp/nagonagu/20080415/1208272319http://d.hatena.ne.jp/nagonagu/20080417/1208415004http://d.hatena.ne.jp/nagonagu/20080420/1208702027