世界が安全で弱者が自由に行動できると都合が悪いのだろうか? 

 ずっと、ブログで紹介したい気はあったけど、とりかかれなかった本に印象に残った一節がある。

 私を守ろうとして戦って、世の中をますます物騒にして、さらに私を守らなくてはならなくして、そうやって私を自分に縛り付けようとするのはやめなさい。あなたが私を守らなくても、私が一人で自由に安全にどこまでも歩いていける世の中を作ってください。そんな世の中で私が自由に生きられて、それでもなお、あなたといっしょにいたいと思うほど、素敵な人になれると、自分に自信を持ってください。

出典は、板坂耀子氏の「私のために戦うな(弦書房、2006年12月25日発行)」(「第二章 私のために戦うな」「5 守られないで生きたい」「守られる不幸」P.105の一部)から。

 これは、板坂氏が強く主張したいことであるようで、ほぼ同じ記述はこの本の別の箇所にも見受けられる。

 「守られる」ということは、その「守ってくれる人」がいないと、どこにも行けないことでもあり、限りなくその人に縛りつけられることに他ならない。
 もしかしたら、その人は私を自分にしばりつけ、その人がいなくてはどこにも行けない私にするために、あえて私の敵を作り、危険な世の中を維持しようとしているのではないかとさえ、ひねくれて考えてしまいたくなる。
 思えば、大学一年生の時、「女子学生の会」というところが行ったアンケートで、「女であることを不満に思ったのはどういう時か」という問いに私は「月夜の姪浜(福岡の海岸)を一人で歩きたくてもできないこと」と書いた。
(「第三章 受け身の愛」「6 守られる憂鬱」「守らなくていい」P.143の一部より)


 先にあげた一節は、小林よしのり氏が「戦争論」で「女性は自分を守るために戦ってくれない男とは別れなさい」と書いていることを例に引き、いまだに「若い人の中でも」『愛するものを守るために戦う』(その圧倒的に多い場合は「男は女を守るために」)、という発想が広く支持されていることを述べた後に、この発想は「守られるということは、おまえは弱い、一人前でない、保護される存在である、自由にどこにでも行ってなんでもしてはいけない、ということ」に他ならない、そしてその考え方は嫌いだと述べた後に、周囲に常に言っている事として示されている。

 この一節が今気になるのは、きっと、社会(?)から「守られるべき」と認識されている存在を、社会(?)が「守れなかった」場合に、その原因が「守られるべき存在」にあるとして、必死になっている人達が目に付くからなんだろう。


ユーザータグ:  『男は熊』
[ 2008/03/09 15:08 ] 四方山話 | TB(2) | CM(14)












無料カウンター