吉見義明氏の「従軍慰安婦」(岩波新書 ISBN4-00-430384-2 第一刷1995/04/20, 第17刷を入手)を読んだものの、読後感をまとめられないというか、読後感をまとめられない事が読後感というような状態をうろうろしているが、読んでいるうちに気になる点があった。
…多分、とっくに気がついている人には、なんだそんな事っていう点だろうけど。
「慰安婦」とされた被害者数は、正確なところが解らないながらも、邦人の移動記録や職業別統計などを元にして推定されていることが多いようだ。つまり、日本・朝鮮・台湾の人が、数として現れてくることが多くなる。
しかし、徴収の実態などの情報を知るに従い、そんなどころではないというのは想像が付く。そして、吉見氏の「従軍慰安婦」には南京の敦賀第15師団軍医部の「衛生業務要報」にて(P.82-83、あるいは「従軍慰安婦資料集60」)43年4月に軍医部が検診した「慰安婦」が日本人272、朝鮮人48、中国人261人、とある。
一方、女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)の活動報告を確認してみると、償い事業を実施したのは、
オランダ(2001年7月13日終了)、
インドネシア(高齢者福祉施設整備事業への支援として1997年から2002年)、
台湾(2002年5月1日終結)、
韓国(2002年5月1日申請受付終了)、
フィリピン(2002年9月終了)であり、2002年9月時点で285名の方々に対して実施した事業をもって終了となっている。
そして、アジア女性基金は今年の三月に解散している*1。中国の元「慰安婦」の人達への償い事業はなぜ行われていない?との疑問がわいた(北朝鮮の元「慰安婦」の人も気になるけど…)。
答えらしいものは
ここで見つけた。
アジア女性基金の和田春樹理事がBBCのインタビューに答えた記事の翻訳。
____________引用開始
中国政府は、韓国政府がしたような女性の認可システムを確立する際に支援することを望まなかったから、と和田氏。「戦争ではたくさんの異なる種類の犠牲者が中国にいました。中国政府は慰安婦だけ支援するために選び出すことが難しかったのだろうと私は思っています。」
____________引用終了
そして、これよりは前の時点にはじまった流れではあるが、昨今の日本における戦争責任に対する認識の変化に反応した自国世論を、中国政府は無視できなくなった。95年には当時の銭其〓外相(〓は王へんに深の右側)が「日中共同声明で放棄したのは国家の賠償請求」と発言し、それがきっかけとなり、日本各地で中国人元「慰安婦」による訴訟が起こされた*2。それらの訴訟ほとんどで背景事実も個別事実も認定されている。なのに、国家無答責や除斥期間を理由に請求は棄却されている。
…アメリカ下院の「慰安婦」決議を提出したマイク・ホンダ議員への中国企業からの献金が多いことを指摘した人がいたようだが、こういう背景を頭に置くと、あっても仕方ないように思える。
安倍首相が26日から訪米と聞くが、議会演説その他無しの急ぎ足のご訪問らしい。長居して突かれたくないネタがあるんだろう。
それにしても、この問題で外国向けの発言と国内向けの発言を使い分けるのは、いい加減に止めていただきたいものだ。
*1
2007年03月28日11時09分 asahi.com
「慰安婦問題を歴史の教訓に」 女性基金が外相に要請
元従軍慰安婦への償い事業を12年にわたって続け、今月末に解散するアジア女性基金の石原信雄副理事長(元官房副長官)らは27日、外務省に麻生外相を訪ね、政府の支援継続を求める村山富市理事長(元首相)の申入書を手渡した。
申入書では「慰安婦問題を歴史の教訓としていくことは、なお日本国民の課題だ。政府の働きに期待する」などとして、高齢化する元慰安婦へのケア事業を引き継ぐNPO(非営利組織)への資金援助や、女性の人権問題に対する国際的取り組みの堅持を求めた。
これに対して外相は、基金の活動に「深い敬意」を表明し、「基金解散後も、基金の事業に体現された国民と政府のこの問題に対する真摯(しんし)な気持ちが引き継がれていくよう努力していきたい」と応じた。
*2
2007年4月5日 夕刊 東京新聞
「戦後補償闘い続ける 中国人弁護士エリートの座捨て」____________引用開始
(前半略)
かつては北京の弁護士事務所のトップとして、七十人の部下を抱えるエリート弁護士だった。その座を捨てて、戦後補償裁判に身をささげたきっかけは、十二年前に開かれた国連女性会議(北京)だった。席上、日本人弁護士から「従軍慰安婦の調査を手伝ってくれませんか」と声をかけられた。
それまで従軍慰安婦や強制連行の事実を詳しくは知らなかった。山西省の山奥の村で、生まれて初めて老女から慰安婦の被害体験を聞いた。戦後も「敵に体を提供した売春婦」と非難され、差別され続けた。「こんな残酷な被害があったのか」と驚がくした。一九九六年に初来日、元慰安婦の原告と一緒に法廷に立った。(中略) 戦後補償裁判は、九五年に中国の当時の銭其〓外相が「日中共同声明で放棄したのは国家の賠償請求」と発言したのがきっかけとなり、日本各地で起こされた。二百人を超える原告の三分の一はすでに他界している。
原告に残された時間はあまりない。康さんは昨秋、原告約七十人を初めて来日させ、行政に救済を訴えた。悲惨な戦争体験を持つ原告の心の支えにもなっている。
「戦争責任から逃れることは決してできない。戦後補償問題を解決することが、日本が経済だけでなく、政治的に巨人になれる機会。日本の将来を決める試金石です」
____________引用終了